
親子丼を、よく行くお蕎麦屋さんで
食べました。おいしいお蕎麦屋さんなので、
蕎麦を食べるべきなのでしょうが、
僕は、親子丼をよく食べます。
かつ丼もそうですが、いい出汁にいい脂の溶け出す具材を
卵でとじるという料理法は、日本の偉大な
発明のひとつだと思うのです。
その出汁の染みたごはんには、
ちょっと酸味のある漬物がぴったり合います。
最後の一口を食べるときのために、
胡瓜は残しておこうかなどと
久住昌之さんの真似をして頭の中で
戦略を立てたりするのも楽しみのひとつです。
そして大切なのは、お味噌汁。この良し悪しで
丼物の食事の成否が決まると言ってもいいでしょう。
いい出汁をとっているお蕎麦屋さんの味噌汁は
ほんとうにおいしい。親子丼の肉汁でこってりした口の中を、
品のあるかつお出汁の立った味噌汁がすっきりした旨みで
流してくれる。この幸福。
洗練された和食というジャンルの中では
「B級」と言われてしまうのかもしれませんが、
僕は、そもそも「A級」「B級」などという分類をしません。
料理は山のようなもので、高い山、低い山、いろいろありますが、
それぞれが頂点を持っているのだと思います。
僕は、料理登山家として、日本の「料理百名山」を紹介していきたいと
思います。が、今日は、日々つくづく思ってきた
グルメ番組のことを書きたいと思います。
グルメ番組というのは製作費が安くつくからだと思うのですが、
報道や情報番組のグルメレポートも含めると、
毎日恐ろしいほどのグルメ情報が発信されています。
僕は食べることが好きなのでよく見るのですが、
感じることは、一部有名グルメタレントを除いて
いわゆる「食レポ」が凡庸すぎるのです。
というより、どこかの「食レポ」学校で習ってきたのか
と思われるほど、どのレポーターの言葉も似ているのです。
ボキャプラリーは「甘い」「とろける」「ふわっ」
「そのあと香りが鼻に抜ける」「歯がいらない」
「脂が溶け出す」「肉汁がジュワッ」・・・。
それらの言葉を組み合わせているだけで
まったく聞いていてつまらない。
その料理のおいしさは、映像で紹介される
素材やつくる手順、料理人のこだわりなどから
十分伝わってきていて味や香りも当然想像できる。
そこで一言、は確かに難しい。
でも、お金をもらってレポートをしているのであれば
言葉は平凡でも食べ方や食べた後の表情なども含めて
何らかのパフォーマンスをしてほしいと思います。
料理の味をレポートするのであれば、
味を正確に表現するのではなく、
映像や料理作りの手順の説明だけでは
わからないものを表現してほしいのです。
想像ですが、実はレポーターより
テレビ局のディレクターや
プロデューサーのほうが凡庸なんだと思います。
食レポとはこういうものだという固定概念から
抜けきれないのだと思います。
テレビドラマ「孤独のグルメ」の中で原作の
久住さんが店と料理をレポートするコーナー
が面白いのは、彼のレポートの言葉そのもの
というより、彼が食べることをとても
楽しんでいることが伝わってくるからです。
これと比べると、テレビ局アナウンサーや若い女性タレント、
レポーターなどの「食レポ」は、「仕事」に見えるのです。
ディレクターの「スタート」や「カット」という声が
聞こえてくるようなのです。
グルメ番組が好きで見たい僕が
グルメ番組で不愉快になるのは、
こんな「仕事」のせいなのかもしれません。