
僕は若い頃、引越しが好きで、
居候的なことも含めれば、
かなりの数の街に住みました。
いや、いろんな街が知りたくて、
引越しをしていたのかもしれません。
どんな街にも必ずあるのは、
一見さんの入り難い
常連さんばかりのお店です。
昔はかなり美人だったんだろうな
という女将がやっているような
小料理屋がその典型的なタイプです。
居酒屋よりは値段は高いけど、
サラリーマンにも充分通える
価格設定のことが多いようです。
ガラリと店の扉をあけると、
常連さんがいっせいに
こちらを向き、
品定めされている感じ。
僕は酒場に関しては、
チャレンジャーなので
この視線に耐え、
「すみません、いいですか?」
と、探り探りの一言。
「いらっしゃいませ!」
と女将は明るい声で
空いてる席をすすめてくれます。
僕は、かなりいい人を装いながら
まずはビールで様子を見ます。
さてここからは、逆にこちらが
お店と常連客を品定めする番です。
お通しはその店の料理の試金石。
ここで、ちょっと気の利いた
煮付けや旬の野菜のお浸し、
あるいは、おから、ひじきなど、
ひとり者にはありがたい
家庭料理や、その味が
今日仕込んで丁寧に料理された
ことが伝わってくるようだと、
確実にいいお店です。
プロの料理人の料理ではなく、
料理の上手い素人の
味はコンビニやチェーン店
の味に染まった舌には、
まるで母親のように優しく、
心を癒してくれるのです。
そして、地元密着型の
こういうお店を
「いいお店」にしているのは
実は常連客の客層です。
酒場にとって居心地の良さは、
料理の次に大切な要素です。
多くの不特定多数の人間が
集まる場所で、
居心地のいい空間を
保つことは大変なこと。
女将の最大の仕事
といっていいのが
おそらくそれをコントロール
することです。
それはお世辞を言ったり、
褒めたり叱ったりといった
客あしらいよりも、
「女将ファン」をつくること
なのだと思います。
これは理屈ではわかっても
実践することはとても
難しいことですが、
ファンが常連に数人いれば、
自動的に店の雰囲気が
維持されるのです。
プロのように料理一本で
勝負するのではなく
大手資本の飲食店のように
マーケティングでも
勝負できないこういうお店は、
実は危ういバランスの上に
成り立っているのです。
人に歴史ありといいます。
女手ひとつで店を切り盛り
する気丈な女将ではありますが、
お客が少ない暇な時などに、
ポツリと弱気な言葉を
漏らしたりします。
こういう表現は
あまりよろしくないのかも
知れませんが、その女将は
どこかの偉いさんの
愛人だったのだそうです。
40代半ばぐらいでしょうか、
その底知れぬ孤独な横顔と
将来への不安。
若い頃から水商売の世界に生き、
そこで出会った素晴らしい男性が
その偉いさんだったようです。
僕がよく通ったそのお店が
ある日突然、
閉店していたときは、
何だか胸が痛くなったのを
覚えています。